「私は私らしい障害児の親でいい」(書籍)
障害児を生んだ母親の手記というのは、大半が「色々辛いことはあるけど、うちの子に生まれてきてくれてありがとう(ハート)」という自分に酔ったようなポエム調のものが多い。
辟易としている中、出会ったのがこの本。
「私は私らしい障害児の親でいい」児島真美著(1998年/ぶどう社)
そうだよ!!ホント、そうなんだよ!!
という共感の嵐で一気に読んでしまった。
後に翻訳者、福祉ライターとして活躍することになる著者が、ひょんなことからヨーロッパの福祉事情を視察する旅にボランティアとして参加することになる。
そして直面したヨーロッパの個人主義的福祉の在り方とそこに潜む闇、自称“福祉のプロ”たちの傲慢さ……。
筆者はその旅の中で、重度心身障害を抱える娘との出来事や家族との関係、心の葛藤を赤裸々に語っていく。
ブログみたいに子どもの成長をたどるような手記ではなくて、こういう形で自身の経験を振り返り、障害児育児のことを語る本というのを初めて読んだ。
読み物としても面白いし、ヨーロッパの福祉や考え方についても学べるし、何よりも障害児を育てることを美化せずに率直に語っているところに好感を持った。
障害のある子を産んだことで、自分の両親が“毒親”であることに気づくのは悲しくて怖い。理解のない古い頭の親から、心無い言葉を受けたことがある障害児を持つ若い母親は多いんじゃないだろうか。今でもそうなら、20年前ならもっと。
「ああ、自分だけじゃなかった」
とこの本を読んで少しホッとしたと同時に、19年も前に書かれた本なのに、障害児とその親を取り巻く環境がまったく改善されていないことに愕然とする。
医療関係者の傲慢さは、少しマシになっている気がする。それは恐らく、インターネットの普及で口コミや噂が広まりやすくなったからだろう。医療関係者の自助努力ではなく、「叩かれたくないから大人しくしといたろ」と押し黙っているような狡猾さも感じなくはないが。
著者の児玉さんの言葉がズシンときた。(P129)
「私ね、本当の本当の本心をぶちまけると、たまたま障害がある子どもが生まれたというだけで、どうして私がなにもかもあきらめなければならないの、という怒りみたいなものがある。どうして私はひとりの人間として、自分の自己実現を完全に放棄しなければならないのっていうね。それは、海(※)に愛情がないということとは違うと思うの」※著者の娘
私も我が子を生んでから、ずっとずっと思ってきたことだ。
健常児は「社会が育てましょう」とか「母親は悩んでないで、誰かに相談して、みんなで育てましょう」みたいに社会は優しい。とりあえず、表面上は。
でも、障害児を生んだ母親は「自己責任」だ。「お母さんがいなければ、この子は生きていけないじゃない」って。
分かるんだ。でも、私は障害児を生んだことで子どものお世話マシーンに転生でもしたのか。自己実現や好きなこと、何もかも捨てて、子どもに奉仕し続けるのが正しい在り方なのか。
心中をした母親が“普通の”育児ノイローゼだったなら世間は「かわいそうに。なんとかならなかったのか」となるのに、その子が障害児だったとわかると「ああ、そりゃ仕方ないね」となる。
これっておかしくない?
でも、それを口に出すことはできない空気がある。
同じ障害児を持つ親でさえ、「え?なんで?そういう子を生んだからには、母親に責任があるんだから、自分のことより子どものことでしょ。当然でしょ」っていう背中から撃つようなことを言う人もいる。
私はたぶん一生、このことに悩みながら、戦いながら生きていくことになるんだと思う。
児玉さんの著書をもっと読んでみたいと思った。