「障害を持つ息子へ ~息子よ。そのままで、いい。~」(書籍)
7月26日が近づいている。
そう、「相模原障害者殺傷事件」からもうすぐ1年だ。
あの事件の第一報を聞いた時、「殺されたのはうちの子だ」と思った。
とても他人事とは思えず、震えるほど恐ろしく、涙が出てきたのを覚えている。
インターネット上に広がる障害者に対する「ヘイト思想」を目にするたびに、うちの子にナイフが振り下ろされる気がして、その時を境にSNSを辞めた。
我が子は事件とはまったくの無関係だけれど、この事件が私に与えた衝撃はかなり大きかった。
この1年、我が家には色んなことがあった。
痙攣の群発発作を起こして救急車を呼び、何度も入院した。
療育園の医療型の通園に通うようになった。
医療や福祉と繋がりが広がり、障害児を育てているママ友もできた。
子どもの病気や障害を少しずつ家族で受け入れて対応してきた1年だったように思う。
それでやっと、この事件と私なりに向き合おうという気になってきた。
まず手にしたのは、この本。
「障害を持つ息子へ ~息子よ。そのままで、いい。~ 」神戸金史著(ブックマン社)
自閉症の息子を持つ父親が相模原障害者殺傷事件を受けて詩を書いた。
それがSNSで拡散され、テレビでも報道され、一躍話題となった。
「障害を持つ息子へ」というその詩の全文を、ここに転載する。
私は、思うのです。
長男が、もし障害を持っていなければ。
あなたはもっと、普通の生活を送れていたかもしれないと。
私は、考えてしまうのです。長男が、もし障害を持っていなければ。
私たちはもっと楽に暮らしていけたかもしれないと。
何度も夢を見ました。「お父さん、朝だよ、起きてよ」
長男が私を揺り起こしに来るのです。
「ほら、障害なんてなかったろ。心配しすぎなんだよ」
夢の中で、私は妻に話しかけます。
そして目が覚めると、いつもの通りの朝なのです。言葉のしゃべれない長男が、騒いでいます。
何と言っているのか、私には分かりません。
ああ。またこんな夢を見てしまった。
ああ。
ごめんね。
幼い次男は、「お兄ちゃんはしゃべれないんだよ」と言います。いずれ「お前の兄ちゃんは馬鹿だ」と言われ、泣くんだろう。
想像すると、私は朝食が喉を通らなくなります。
そんな朝を何度も過ごして、突然気が付いたのです。
弟よ、お前は人にいじめられるかもしれないが、人をいじめる人にはならないだろう。
生まれた時から、障害のある兄ちゃんがいた。
お前の人格は、この兄ちゃんがいた環境で形作られたのだ。
お前は優しい、いい男に育つだろう。
それから、私ははたと気付いたのです。あなたが生まれたことで、
私たち夫婦は悩み考え、
それまでとは違う人生を生きてきた。
親である私たちでさえ、
あなたが生まれなかったら、今の私たちではないのだね。
ああ、息子よ。誰もが、健常で生きることはできない。
誰かが、障害を持って生きていかなければならない。
なぜ、今まで気付かなかったのだろう。
私の周りにだって、生まれる前に息絶えた子が、いたはずだ。生まれた時から重い障害のある子が、いたはずだ。
交通事故に遭って、車いすで暮らす小学生が、雷に遭って、寝たきりになった中学生が、
おかしなワクチン注射を受け、普通に暮らせなくなった高校生が、
嘱望されていたのに突然の病に倒れた大人が、
実は私の周りには、いたはずだ。
私は、運よく生きてきただけだった。
それは、誰かが背負ってくれたからだったのだ。
息子よ。君は、弟の代わりに、
同級生の代わりに、
私の代わりに、
障害を持って生まれてきた。
老いて寝たきりになる人は、たくさんいる。事故で、唐突に人生を終わる人もいる。
人生の最後は誰も動けなくなる。
誰もが、次第に障害を負いながら生きていくのだね。
息子よ。あなたが指し示していたのは、私自身のことだった。
息子よ。そのままで、いい。
それで、うちの子。
それが、うちの子。
あなたが生まれてきてくれてよかった。私はそう思っている。
父より
次男に触れているところは、同じように健常の兄弟児を抱える身にはグッとくるものがある。
著者の神戸金史氏は、RKB毎日放送の東京報道部長であり、前職は毎日新聞の記者。
メディア側の人間が、他人ではなく自分と家族のことを発信するというのは、その影響力も理解しているがゆえに勇気が必要だろうなと思う。
これまで取材や報道を通して見えてきた障害者を抱える家族の実像を、「詩」というわかりやすい言葉をきっかけに伝えようという本書は、薄いながらも良書といえる。
この本で重要なのは、「良い詩だね」とか「弟が素直に育ってて素晴らしい」とかそういう障害児育児の表面的な部分ではない。
それだけの本なら、ただの“感動ポルノ”だ。
著者が記者だからこそ知り得た「障害児を抱えて心中する人が多い事実」と、それを取材していく過程が描かれていることが、この本を単なる“感動ポルノ”から脱却させている。
なぜ、こんなことになるのか。
頑張って、頑張って障害児を育ている家族が、特に母親が、どうして心中に走ってしまうのか。
「障害児を育てるのって大変だから、仕方ないよね」
という言葉では片付けられないものが、根底にある。
本書の最終章に当たるP129から書かれている、「母として」という著者の妻の手記の中に、その答えがある。
(相模原障害者殺傷事件に対して)
私がこの事件に触れたくない理由は他にもあります。それは障害者の存在価値を完全否定する優生思想的な犯行動機です。これが私の心の中の葛藤を思い起こさせ、後ろめたい気持ちになるからです。
(中略)
誰しも多かれ少なかれ願望は持っていると多みます。勉強やスポーツはできないよりできた方がいい、学歴や収入も高い方がいい、病気や障害もない方がいいに決まっていると。これらは「内なる優生思想」として私の中にも潜んでいます。幸福の尺度として。
(中略)
私を苦しめているのものは恐らくこれだろうと思い、私の中に潜んでいる金佑に関する「内なる優生思想」を閉じ込めることにしたのです。
障害者殺傷事件も、それに対するインターネット上のヘイト思想も、母親が障害児を殺して心中してしまうのも、元をたどればこの「優生思想」に行き着くのだ。
私自身の中にも、たぶんまだ「内なる優生思想」がきっとある。だから、悩み、苦しんでいる。
(この優生思想に関しては、かなり根深くて、歴史も長い。そのことに関しては、また後日ブログに書こうと思う。)
著者の妻もまた、私のように苦しんだ過去があったのだろう。
母として、取材や仕事で外に発信して社会と繋がっていく夫とはまた違う葛藤があったことは、痛いほど理解できる。
著者の妻は育児をする中で、たくさんの困難や葛藤を乗り越えて子どもとともに親として成長していき、そして「私の元に生まれてきて本当に良かった」と心から思えるようになっていく。
そして手記の最後はこう締めくくっている。
母である私は、金佑が生まれてきた意味があるのか、社会の役に立つ人間なのかと自問自答することはなくなりました。
私自身、同じことを問われれば答えに詰まることに気付いたからです。何を思い上がっているのだろうと。
感動系の夫の詩とは対照的に、妻の手記は核心をついているな、という印象を持った。
もちろん良い詩だし、中身も興味深かったけれど、この妻の短い手記があるだけで「読んでよかった」と思わせてくれる本だった。
「この子が生まれてきたことに意味はあるのか」
の答えは、著者の妻の答えを借りるなら、
「この世に生を受けたものに無駄なものなど存在しない」
のだ。私もまったく同意だ。
手記の中で妻は、こうも書いている。
十五年前の私のように、我が子の困難に直面し、自分が潰れそうになっている親御さんの励みになればと思い、この文章を綴っています。
ありがとう。本当に励みになっています。と伝えたい。